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仲毛芝居跡(ナカモーシバイアト)

仲毛芝居跡(ナカモーシバイアト)

 沖縄で最初の常設芝居小屋跡。仲毛演芸場(ナカモーエンジバ)ともいう。
 「仲毛」とは、この一帯に広がっていた久茂地川(くもじがわ)の中州のこと。1884年(明治17)頃、第百五十二国立銀行副頭取の松田通信(まつだみちのぶ)氏によって埋め立てられ、埋立地の地名ともなった。
 沖縄の古典芸能を代表する「組踊(くみおどり)」(冠船踊(かんせんおどり))は、かつては首里(しゅり)士族の子弟によって踊られ、中国からの冊封使節(さっぽうしせつ)歓待の宴に供された。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、職を失った冠船踊経験者の一部は、那覇(なは)に出て、思案橋(しあんばし)のたもとや久米孔子廟(くめこうしびょう)前といった空地に、叺(かます)(藁筵(わらむしろ))で囲っただけの小屋で踊りを見せ(カマジー芝居)、木戸賃を取って生活の糧にしたという。仲毛芝居も当初は、カマジー小屋で、三間四方の板敷き舞台があったという。
 最後の冠船踊奉行を務めた小禄按司朝睦(おろくあじちょうぼく)の子朝亮(ちょうりょう)は、カマジー小屋や冠船踊出演者の現状を憂い、1891年(明治24)頃、県の認可を取り、仲毛芝居小屋を瓦葺(ぶ)きの本建築に改め、仲毛演芸場とした。敷地は200坪余りで、落成式には組踊が披露され、喝采(かっさい)を博したという。また、踊りだけではなく、狂言(チョーギン)や歌劇なども創作され、一般民衆の人気を得た。
 仲毛芝居が本建築になった頃、辻(つじ)の端道(はたみち)に本演芸場(フンエンジバ)(後の「下の芝居(シチャヌシバイ)」、沖縄座(おきなわざ))、新演芸場(シンエンジバ)(壬申座(じんしんざ)、後の「上の芝居(ウィーヌシバイ)」、球陽座(きゅうようざ))、さらに中座(なかざ)ができ、芝居興行は辻一帯が中心となった。仲毛演芸場は空きが続き、明治30年代には廃止されたという。
 仲毛一帯はその後、久茂地川の水運を利用した材木店が建ち並んだが、沖縄戦後の区画整理により、道路・商業地となった。

所在 那覇市東町5-22
分類 芸能
場所 旧那覇
備考 国道58号線「泉崎」交差点より徒歩約1分。西武門病院前。