那覇市内史跡・旧跡案内

那覇市内史跡・旧跡詳細

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落平(ウティンダ)

 那覇港湾内の奥武山(おうのやま)に向かい合う小禄(おろく)の垣花(かきのはな)にあった樋川(ヒージャー)跡。樋川とは、丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を、樋を設けて取水する井泉のこと。
 落平は崖の中腹から流れ出て、小滝のように崖下の漫湖(まんこ)の水面に注いでいた。また、落平とその背後の丘陵の松林は、漢詩や琉歌で詠まれるなど那覇の名勝で、楊文鳳(ようぶんほう)(嘉味田親雲上光祥(かみたペーチンこうしょう))は、「落平瀑布(ばくふ)」と題する漢詩を詠んでいる。
 那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に参まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使(さっぽうし)一行の来琉を控え、落平を調べると、樋が壊れ、水量が減っていたため、泉崎村(いずみざきむら)の長廻筑登之親(ながさくチクドゥンペーチン)雲上等36人の寄付によって、1807年に落平の樋を修理し、さらに60間(約108m)程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記(ひひき)」)。
 浮島(うきしま)と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかったという。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となっていた。そのため、大きな水桶2 ~ 3個に注いだ落平の水を伝馬船(てんません)で那覇に運び、それを女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。明治期以来、水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが、1933年(昭和8)に至って念願の水道が敷かれ、水道普及により、水商売も姿を消していった。
 終戦後、米軍の軍港整備にともない、那覇港南岸の垣花が敷き直されたが、そこから出た土砂や、那覇港浚渫(しゅんせつ)の土砂を用いて、1957年(昭和32)頃、落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ、陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの、一帯は宅地化が進んだため、落平の水量も減少した。現在では、岩肌からしみ出る程度となっており、1807年に新たに造られた樋川は、拝所となっている。

所在 那覇市山下町18地内
分類 民俗
場所 旧那覇
備考 モノレール奥武山公園駅より北西へ徒歩約6分。県道7号線山下町大通り沿い