那覇市内史跡・旧跡詳細
松尾山跡(マーチューヤマアト)
浮島(うきしま)と呼ばれた那覇の中核をなした丘陵跡。久米村(クニンダ)と若狭町村(わかさまちむら)の間にあったことから「久米村松尾」・「若狭町松尾」とも呼ばれた。松が生い茂る山林は、総じて松尾山(マーチューヤマ)と呼ばれ、かつては、松尾と呼ばれる多くの場所があった。
琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったとされるが、1899年(明治32)から実施された土地整理事業(土地・租税の制度改革:~ 1903年)により、県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、1945年(昭和20)の沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて、那覇尋常高等小学校(1888年開校)、那覇地方裁判所(1893年移転開所)、知事官舎(1916年開設)、沖縄県立第二高等女学校(1923年移転開校)、松山(まつやま)尋常小学校(1902年開校)があり、小学校の南側に沖縄県立沖縄病院(1901年移転開院)が置かれた。中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎(1910年設置)等と、公的施設が集中した。
一方、東側の「東郷松尾(トーゴーマーチュー)」・「仲地小の丘(ナカチグヮーヌオカ)」等と呼ばれた丘陵には、念仏者の屋敷や長寿宮(ちょうじゅのみや)があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。
1944年(昭和19)の10・10空襲や、その後の地上戦により、松尾山一帯の施設は焼失した。終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年(昭和52)からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園(ふくしゅうえん)が整備されている。
なお、1603年に来琉して、浄土宗(じょうどしゅう)を伝えた袋中上人(たいちゅうしょうにん)の事績を記した「袋中上人行化碑(ぎょうげひ)」(1924年建立)が、上人が住持した桂林寺(けいりんじ)跡とされる場所に残されている。
所在 | 那覇市松山1-17 松山公園内 |
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分類 | 地名・名勝 |
場所 | 旧那覇 |
備考 | モノレール県庁前駅より徒歩約8分。松山公園内 |