那覇市内史跡・旧跡案内

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那覇劇場跡(ナハゲキジョウアト)

那覇劇場跡(ナハゲキジョウアト)

 旧真和志村(まわしそん)字樋川神里原(ひがわかんざとばる)(現那覇市壺屋(つぼや))に建立された芝居専門の演芸場跡。
 1945年(昭和20)の沖縄戦により、沖縄の住民は各地区の収容所生活を余儀なくされた。このような中、住民を代表する「沖縄諮詢会(しじゅんかい)」(後の沖縄民政府)が組織され、その下に文化部が置かれた。文化部では収容された琉球芸能の役者・音楽家など約200人を集め、松・竹・梅の3劇団を組織し、各収容所の慰問公演を行った。
 1945年11月10日の先遣隊派遣を皮切りに那覇市の部分的解放が行われ、壺屋・牧志(まきし)を中心に住民の居住が広がった。那覇では人口増加とともに市場ができ、さらに中央劇場、アーニーパイル国際劇場、那覇劇場の順に劇場が造られた。
 那覇劇場は、1949年(昭和24)9月、仲本清智(なかもとせいち)、宮里孝助(みやざとこうすけ)・孝盛(こうせい)兄弟等を中心に演劇専門館として造られた。当初は露天の劇場であったが、こけら落としは、松劇団(団長島袋光裕(しまぶくろこうゆう))により華々しく行われたという。那覇劇場は他館が映画専門館として興行する中、戦後旗揚げされた多くの劇団が公演を行い、芝居のメッカとして人気を博した。また、学芸会やボクシング試合など各種催し物会場にも使われた。
 その後、映画・テレビ人気、さらに沖映本館が1965年(昭和40)から芝居専門館として興行したため、那覇劇場は経営難に陥った。経営者の仲本清智は、姪の仲田幸子(さちこ)率いる「でいご座」の常打ち館として再生を図ったが、1969年(昭和44)閉館した。劇場跡地は売却され、市場利用者の駐車場として経営された。

所在 那覇市壺屋1-1地先
分類 芸能
場所 旧那覇
備考 県道222号線開南せせらぎ通り「開南」バス停より北東へ徒歩約3分。