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辻原墓地跡(チージバルボチアト)

辻原墓地跡(チージバルボチアト)

 那覇の北西沿岸部の「辻原」にあった墓地群跡。
 かつて、那覇の北の海岸は、「潮の崎(スーヌサチ)」・「波上(ナンミン)」・「雪の崎(ユーチヌサチ)」と呼ばれる岬があり、岩礁台地が連なっていた。「潮の崎」後方の台地は、「辻原」・「辻山(つじやま)」などと呼ばれた。
 辻原の墓は、浮島(うきしま)であった那覇に、「?人(びんじん)三十六姓」と呼ばれる中国からの移住者が、「久米(クニンダ)村」を形成し始めた14世紀後半以降から造られたと思われる。東村(ひがしむら)・西村(にしむら)に居住した人々の墓も造られ、那覇の一大墓地地帯となっていた。
 1853年に来琉したペリー提督の『日本遠征記』では、「海上から眺めると、所々に白い斑点があった。最初、民家ではないかと思ったが、後でそれが、琉球の墳墓であることがわかった」と記している。1932年(昭和7)と、その翌年に沖縄を訪れた山崎正董(やまざきまさとう)熊本医科大学(現熊本大学医学部)名誉教授は、辻原墓地の印象を「墓の数の多いことと、その構造の多種多様なことに驚かされる。(中略)、まるで墓の見本市のよう」(『山崎博士の演説と文章』)と述べ、亀甲墓(かめこうばか)や破風墓(ハフーばか)(切妻型(きりづまがた))など沖縄式の墓が多数あったことがうかがえる。普段は人気もなく、荒涼とした辻原も、旧暦3月の清明(シーミー)の時期には、それぞれの墓に親戚一同が集まり、墓前に重箱を広げ、賑わいを見せたという。
 終戦後の1953年(昭和28)から始められた、辻から若狭(わかさ)にかけての区画整理では、辻原を含む海岸一帯にあった1,700基余りの墓は、すべて移転を命じられ、海岸丘陵は削り取られた。墓石や周囲の石垣の石は、ほとんどが埋立部材や石粉として道路整備などに使われた。辻原跡地は、その後、歓楽街として整備され、現在もその名残を留めている。
 なお、墓の移転先として、1956年(昭和31)から識名(しきな)霊園が整備された。

所在 那覇市辻2-30
分類 歴史
場所 旧那覇
備考 県道43号線「上之蔵」バス停より徒歩約5分。辻若狭緑地内