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識名盛命旧宅跡(シキナセイメイキュウタクアト)

識名盛命旧宅跡(シキナセイメイキュウタクアト)

 琉球王国時代の政治家・和文学者、識名盛命の旧宅跡。
 識名は、毛国鼎中城按司護佐丸(もうこくていなかぐすくあんじごさまる)を始祖とする豊見城殿内(とみぐすくドゥンチ)の分家で、伊野波(いのは)殿内七世盛紀(せいき)の三男である。長兄は頓智(とんち)話で有名な伊野波親方盛平(ウェーカタせいへい)(モーイ親方)である。
 識名は、1651年に生まれ、中国名は毛起龍(もうきりゅう)。当初、父親の「伊野波」姓であったが、後に真和志間切(まわしまぎり)(現那覇市内の一部)の総地頭となり、「識名」姓を名乗った。
 1666年に首里王府に出仕し、1702年、51歳の時に王府最高職の三司官(さんしかん)となって10年間在職した。この間、1688年に進貢正使として中国に渡航し、1699年には年頭使者(ねんとうししゃ)として鹿児島(かごしま)に赴いた。鹿児島滞在中の随筆や和歌をまとめた『思出草(おもいでくさ)』は琉球最古の擬古文(ぎこぶん)として有名である。
 三司官時代には『おもろさうし』(1710年)や『混効験集(こんこうけんしゅう)』(1711年)の実質的な編さん責任者となった。1715年死去、享年65。
 識名家は、後に子孫は、国頭(クンジャン)間切(現国頭(くにがみ)村)の総地頭となり、「国頭(くにがみ)」姓を名乗っている。

所在 那覇市首里寒川町1-24
分類 人物
場所 旧首里
備考 赤マルソウ通り「寒水川樋川前」バス停より西へ30m。