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沖縄県立沖縄病院跡(オキナワケンリツオキナワビョウインアト)

沖縄県立沖縄病院跡(オキナワケンリツオキナワビョウインアト)

 「県病院」・「県立病院」と呼ばれ、当時、県内唯一の総合病院であった「沖縄県立沖縄病院」の跡地。
 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)に先立ち、西村(にしむら)(現那覇市西)に置かれていた旧薩摩藩(さつまはん)在番奉行所は、明治政府の外務省出張所、次いで内務省出張所となり、1876年8月には医局を設け、内務省官吏や一般住民に医療を施していた。
 1878年8月、出張所は西村の個人宅を間借りし、改めて医局を置き、翌年の沖縄県設置により、沖縄県医局(後に医院)と改称した。1885年(明治18)6月には、「下天妃宮(シムテンピグウ)」跡に移転し、初めて病室を設け、入院患者を収容したという。1889年(明治22)4月に沖縄県病院と改称。その後、老朽化と狭隘化により、1901年(明治34)6月、那覇区字久茂地(くもじ)の松尾山(マーチューヤマ)(現那覇市松山(まつやま))に移転し、1909年(明治42)4月に沖縄県立沖縄病院と改称された。
 病院の敷地は約3,226坪。一部2階建ての瓦葺き木造平屋建てで、南側に正門玄関、外科・内科などの他に、売店・食堂が入った棟があり、長い渡り廊下を上って、東・北病棟へ続いた。北病棟の奥に遺体安置所があり、遺体の引き取りは、近くの裏門からなされたため、裏門は俗に「死に門(シニジョー)」と呼ばれた。
 1944年(昭和19)10月10日の空襲で、建物は焼失し、その後は宜野湾(ぎのわん)の出張診療所で診察を続けたという。1945年(昭和20)の沖縄戦により自然閉院した。跡地は、1953年(昭和28)に那覇商業高等学校の敷地の一部となった。
 なお、県立沖縄病院には、医生教習所(1885年創設)、産婆養成所(1890年創設)が併設され、他に付属施設として、伝染病隔離のための台瀬(だいのせ)病院(1896年創設)や性病対策の若狭(わかさ)病院(1900年創設)が設置されていた。

所在 那覇市松山1-17 松山公園内
分類 歴史
場所 旧那覇
備考 モノレール県庁前駅より徒歩約7分。松山公園内