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山之口獏詩歌碑「座浦団」(ヤマノクチバクシカヒ ザブトン)

山之口獏詩歌碑「座浦団」(ヤマノクチバクシカヒ ザブトン)

 1975年(昭和50)7月、貘の十三回忌に合わせ、山之口貘詩碑建立期成会(代表宮里栄輝(みやざとえいき))により建てられた詩碑。碑文には、1935年(昭和10)に発表された「座蒲団(ざぶとん)」が刻まれている。
 山之口貘は、本名を山口重三郎(やまぐちじゅうざぶう)といい、父重珍(じゅうちん)、母カマドの三男(四男三女の第五子)として1903年(明治36)9月11日、那覇区東町(なはくひがしまち)(当時)に生まれた。沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)在学中から新聞などに詩を投稿した。その後、山城正忠(やましろせいちゅう)、国吉真哲(くによししんてつ)等とともに「琉球歌人連盟」の結成に参加し、この頃から「山之口貘」のペンネームを使用した。1925年(大正14)2度目の上京を果たし、職を転々としながらも文学者佐藤春夫(さとうはるお)や金子光晴(かねこみつはる)等の支援を受け、詩を発表した。
 処女詩集『思辨の苑(しべんのえん)』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年)、太平洋戦争後には、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表し、第2回高村光太郎賞を受賞した。1958年(昭和33)11月、34年振りに帰郷し、親族・友人等の歓迎を受け、2 ヵ月近く滞在した。
 1963年(昭和38)7月19日、胃ガンのため死去、享年59。千葉県松戸市の八柱(やはしら)霊園に葬られた。死後4冊目の詩集『鮪(まぐろ)に鰯(いわし)』(1964年)が発表され、金子光晴はその本の中で、「貘さんは第一級の詩人で、その詩は従って第一級の詩である」と称賛した。
 未発表作品を含む自筆原稿約7,500点余りは、遺族により沖縄県立図書館へ寄贈され、2010年(平成22)11月「山之口貘文庫」として開設された。

所在 那覇市寄宮1-1地内
分類 詩歌碑
場所 旧真和志
備考 1974年(昭和49)7月設置。与儀公園内