那覇市内史跡・旧跡詳細
程順則生家跡(テイジュンソクセイカアト)
琉球王国を代表する文人、程順則の生家跡。
程順則は、1663年久米(クニンダ)村(現那覇市久米(なはしくめ))生まれ。程順則は中国名で、字は寵文(ちょうぶん)。父は程泰祚(ていたいそ)といい、首里士家(しゅりしか)の虞氏外間筑登之實房(ぐううじほかまチクドゥンじつぼう)の次男であったが、中国語の才能を買われ、22才の時、王府の命により、久米村に入籍し、長く途絶えていた程家の跡を継いだ。
順則は、1683年20才の時、勤学(きんがく)として初めて清(しん)(中国)に留学し、4年間滞在した。その後も3度渡唐(ととう)しているが、1706年には、正議大夫(せいぎたいふ)(進貢副使)として北京(ぺきん)へ赴いている。1719年には、紫金大夫(しきんたいふ)(親方位(ウェーカタくらい))に登り、久米村総役(クニンダスーヤク)(久米村の最高役職)に就いた。
この間、『十七史(じゅうしちし)』全1,592巻や中国の教訓書『六諭衍義(りくゆえんぎ)』等を持ち帰った。『六諭衍義』は薩摩藩を経て、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に献上され、その後、庶民教科書として全国に普及した。また、孔子廟(こうしびょう)境内に、琉球で最初の学校の「明倫堂(めいりんどう)」を創設(1718年)し、久米村子弟の教育にあたった。
順則は、『雪堂雑爼(せつどうざっそ)』(1696年)・『雪堂燕遊草(せつどうえんゆうそう)』(1698年)といった漢詩集や、中国渡航の際の航海指南書である『指南広義(しなんこうぎ)』(1708年)などを著し、1719年に来琉した冊封副使徐葆光(じょほこう)に、中山(ちゅうざん)(琉球)第一の文人と賞された。
1728年、66歳の時に名護間切(なごまぎり)(現名護市)の総地頭となり、名護親方と称した。高徳の人として知られ、後に名護聖人と称された。
1734年死去、享年72。墓は辻原(つじばる)にあったが、沖縄戦後の区画整理により、識名(しきな)霊園内に移転された。
所在 | 那覇市久米1-6-14 |
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分類 | 人物 |
場所 | 旧那覇 |
備考 | 県道47号線久米大通り「西武門」バス停前。 |