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久米村周辺の史跡・旧跡(クメムラシュウヘンノシセキ・キュウセキ)

久米村周辺の史跡・旧跡(クメムラシュウヘンノシセキ・キュウセキ)

 久米村は、安里川(あさとがわ)・久茂地川(くもじがわ)・国場川(こくばがわ)、そして海によって囲まれた島「浮島(うきしま)」の一角に、中国からの渡来人が住み着いてできた集落である。方音で「クニンダ」という。
 中国人が居住するようになったのは、琉球王国が中国明朝の冊封体制に参入した頃とされており、14世紀後半のことである。久米村の人々(渡来中国人)は中国への進貢貿易、さらには暹羅(シャム)(現タイ国)や満刺加(マラッカ)(現マレーシアの一州)など東南アジア諸国との貿易で、外交文書の作成や通訳、対外交渉、航海案内にあたり、琉球王国の大交易時代を現出させる原動力となった。
 16世紀後半になると、中国明朝の海禁政策の変化(海外渡航禁止の緩和)や西洋諸国のアジア進出などで琉球の海外交易は衰退し、これに合わせ久米村も衰退した。しかし1609年の薩摩藩島津氏(さつまはんしまづし)の琉球侵攻後、対中国貿易が推進され、久米村の復興強化が図られた。久米村の人々は、前代同様に進貢貿易に従事するとともに、儒学(じゅがく)を始めとする中国の文化文物の導入普及を図り、王国の学問文化を担う存在と位置づけられた。このため、久米村からは近世を代表する文化人の程順則(ていじゅんそく)や政治家の蔡温(さいおん)など幾多の人材を輩出したのである。
 古琉球期に建立された 天妃宮(てんぴぐう)や近世の孔子廟(こうしびょう)をはじめとする多くの文化遺産が残されていた久米村は、沖縄戦で廃墟となったが、天妃宮の石門がかつての名残をわずかに留めている。

所在 那覇市久米1丁目地内
分類 地名・名勝
場所 旧那覇
備考 国道58号線「泉崎」交差点近く